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Invisible Cities

The title of this exhibition comes from Italo Calvino’s novel, which uses a unique text structure to convey the idea of multiple fabricated cities. Each city is imaginatively described as a separate place by a character named Marco Polo, a guest at Kublai Khan’s court. Each of the separately named cities in the book is actually a narrative of Venice. In this way, Calvino was clairvoyant about the fragmented and multiple nature of supposedly coherent cities. We thought about the keyword “virtual city,” a term we use to understand the phenomenon of communities that inhabit meta, fragmented or virtual spaces that transcend our geographical understanding of place, or exist as a psychological extension. 

This exhibition at Hagiso Cultural Facility brings together strands of work that I am working on at Tokyo National University of Arts. Including urban migratory plant life that inhabits a kind of citizenship. These works began with drawings of the weeds along the Sumidagawa River, a former Edo Period port of entry for goods and ideas, now replaced by a highway. These sets of drawings entangle in new organic ways through encounters with the studio and with printmaking mediums. Sometimes these works find a resting form in the medium of colorful mokuhanga. At other times the weeds—still moving and migrating—continue to resist the idea of a fixed or final format. 

This is a two person exhibition with Albert Yonathan Setyawan who primarily works with ceramics, a medium he prefers for its ubiquitous presence in daily life and its social, cultural and historical associations. Over the years he has been exploring other mediums as well such as drawing and performance art.

For this exhibition, Setyawan contemplated the poetic aspects of living spaces as part of the experience of being in a city. He sees the interiors of buildings, such as staircases, windows, doors, ceilings, or any other ordinary parts of a house as something that could evoke personal and intimate memories. Using ceramics and drawings Setyawan created a series of geometric planes consisting of repeated views of the same interior space. Each of these “panopticon” planes are meticulously arranged to create a sense of unity but at the same time also produce a dizzying effect. Due to their multiple perspectives, no single part of them serves as the focal point or the center of attention. Every part of the composition is drawn in exactly the same size which contradicts its own perspective. Setyawan’s works reflect on the idea that our ordinary living spaces are not static entities but organic and fluid extensions of our physical and psychological existence.

 

本展は、イタロ・カルヴィーノの小説をタイトルとしていますがカルヴィーノ氏は、独自の文章構造を用いて、複数の捏造された都市のアイディアを伝えています。それぞれの都市は、クブライ・カ ーンの宮廷の客でるマルコ・ポーロという人物によって、別々の場所として想像的に描写されています。カルヴィーノが本来は一貫しているはずの都市の分断された複数の性質を未来透視力がったようにこの本の中で別々に名前が付けられている都市のそれぞれは、実際には全てヴェネツィアの叙述で「ハチャル都市」というキーワー ドを設置、都市の地理的理解を超えたメタ空間または仮想空間にコミュニティが住む現象を展開するために使用する用語である。

通常、私たちが「都市」について考えるとき、定められた地区の公民機関に登録されている、ある言語(またはモントリオールやヨハ ネスブルグなどでしたら定められた複数の言語)を共有し、経済的 に一つの単位にまとまっているコミュニティーを思い浮かべます。 しかし、このような都会の一体感は、グローバルにつながっている現代では、ますます問いかけたくなる概念です。

ラウスは生まれた国から遠く離れた場所に住んでいますが、だからこそ、都市に成長する移動性植物の生態を、回復力のある植物と自分の経験を結びつけて、ある意味の市民権をもつ存在として調査しているのかもしれません。この作品は、江戸時代に物資や思想の出入り口として使われていた、現在は高速道路に置き換えられている隅田川沿いの雑草を描くことから始まりました。綿密な観察のもとに描かれた雑草のドローイングは、透明な紙にトレースされ、ペンティメントのように、新たな線の関係を形成しながら重ねられていきます。これらの一連のドローイングは、版画技法や制作環境との出会いによって、新たな有機的な方法で絡み合っていきます。ラウスは、ジェネレイティブ・コーディングを版画の展開となった形の一つと考えており、この出会いによって、彼女のドローイングの形態はさらにハイブリッドな文化へとリミックスされていきます。これらの作品は、時にはカラフルな木版画やシルクスクリーンという技法の中で安定した形を見つけます。ある時は、雑草が動き回り、移動しながら、固定された最終的なフォーマットの概念に抵抗し続けています。

本展はセティアワン ・アルベルトヨナタンとの二人展となります。セティアワン は日常的な素材として、文化的、社会的、歴史的な関連性があることとして、陶磁器またはテラコッタを主に使っており、制作を続けている。長年に渡り、彼はドローイングやパフォーマンスアートなど、陶芸意外他の素材も探求してきた。

セティアワン はこの展覧会に都市にいる経験の一部として、生活空間の詩的な側面について考えた。彼は、階段、窓、ドア、天井・柱とか、一般的な生活空間の内部を個人的で親密な思い出を呼び起こすことができるものと見なしている。テラコッタとドローイングを使用し、彼は同じ空間の一部の展望を模様として繰り返し、一連の幾何学的な平面を作成した。これらの「パノプティコン」的な平面のそれぞれは、一体感を生み出すように細心を配置されていた。しかし、それらの単一の部分が焦点の中心として機能するところが見えないからそれらの複数の視点の影響で目がくらむような感覚を感じることがあった。構図の全ての部分がまったく同じサイズで描かれており、独自の視点と矛盾している。セティアワン の作品は、私たちの通常の生活空間は静的な存在ではなく、私たちの身体的および心理的存在の有機的かつ流動的な拡張であるという考えを反映している。

 

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